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6万人を救った男 2025.03.17
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 今年は戦後80年。1945年8月14日、日本政府は無条件降伏を受諾し、その10日後には米ソが朝鮮半島の北緯38度線を事実上の国境として封鎖した。敗戦で機能を失った日本政府の朝鮮総督府の役人に代わって北朝鮮に取り残された約25万人の日本人を束ね、約6万人を救出した民間人がいた。熊本市出身で、34歳だった松村義士男である。
 当時の北朝鮮は、飢餓とソ連兵による略奪や暴行、女性に対するむき出しの凶暴性が横行する無法地帯。また、発疹チフスなどの感染症の広がりによる死者の激増もあり、現地は地獄絵図そのものと化していた。
 日本人難民の凄惨な状況や松村の北朝鮮からの集団脱出工作は、中日新聞論説委員からノンフィクション作家に転身した城内康伸氏の渾身の著書『奪還/日本人難民6万人を救った男』(新潮社)に詳しい。
 松村は朝鮮半島北部にあった日本の建設会社の現場で働いており、太平洋戦争が始まった41年には現地で長女も生まれた。また元左翼活動家だったことから、北朝鮮新政権中枢にも共産主義者の知己が多かった。
 疎開などの名目でソ連軍や北朝鮮当局の了解を得て、在留邦人を鉄道輸送で北緯38度線近くまで移動させ、越境脱出させたり、朝鮮人の漁船を雇い、海路での脱出工作ができたのも、こうした松村の人脈があってのことだった。
 ただ〝引き揚げの神様〟と現地で言われ、称賛された松村を本国で待っていたのは、邦人の脱出工作費用に資産家から借りた借金の厳しい取り立てだった。功を誇ることもなく、恬淡と生きた松村。脳梗塞で倒れ、55歳で死去した。(石井仁・読売新聞東京本社元記者)


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